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永代供養墓の歴史。お墓の転換期を感じる5つの時代

永代供養墓の歴史。お墓の転換期を感じる5つの時代
永代供養墓は、現代最もニーズが高まっているお墓のひとつですよね。少子高齢化が進む現代の日本では、お墓の継承問題は深刻になり、無縁墓も多くなっています。

 

無縁墓は自治体が撤去し、取り出された遺骨は、他の無縁墓の遺骨とともに「無縁塔」に合祀埋葬されますが、その際、読経供養などは行われません

 

霊園が子孫に代わって永代に渡り祭祀をしてくれる永代供養墓は、その時に契約をすれば、無縁仏になる心配がない点が、需要が高い理由です。

 

現在では500以上の霊園で実施されている永代供養墓ですが、その歴史と変遷を知ると、より安心して永代供養墓を選べそうですよね。

 

そこで今回は、現在の永代供養墓の形になるまでの変遷を、それぞれの時代に分けてお伝えします。

 



 

永代供養墓の歴史。
お墓の転換期を感じる5つの時代

 

江戸時代の「永代台帳」


現代の永代供養の起源はハッキリとしませんが、その昔、寺院墓地でお墓を建てて、その寺院の檀家に入る「檀家制度」の始まった江戸時代に「永代台帳」と言うものが残されています。

 

【 江戸時代の永代供養 】

 

★ 檀家制度を基軸にした寺院での永代供養は、檀家も毎年のお布施を支払い寺院を維持していました。

 

・ そのため、寺院が子どもや孫に代わって供養や管理を行うものの、その檀家が離檀するとなればお墓は撤去され、永代供養も終わるものが多数ありました。

 

これが一般的でしたが、毎年のお布施を納める江戸時代の檀家制度では、その宗旨宗派を信仰する近隣に住む方々に限定されていまいます。

 

そこで宗旨宗派は信仰しているものの、地域に関係なく永代供養をしたい人々へ向けた「信者寺」と言うものもありました。

 

このような信者寺や、一般的な寺院でも一度の契約で永代供養を希望する方々へ向けては、一度にまとまったお布施を求めるようになったのです。

 

 

現代に通じる永代供養墓の始まり


一方、現代のようなお墓の継承者がいないなどの理由で、寺院や霊園の管理者が子や子孫に代わって、永代に渡り管理や供養をする「永代供養墓」が始まったのは、1985年のことです。

 

【 現代に通じる永代供養墓の始まり 】

 

★ 1985年の滋賀の比叡山延暦寺大霊園が始めた「久遠墓」が始まりです。

 

・ 続いて1989年、新潟の妙光寺で始まった「安穏廟」、1990年、東京巣鴨の平和霊苑、「もやいの碑」と続きます。

 

比叡山延暦寺大霊園の久遠墓は、現在の合祀塔のような合祀墓はなく、一代で終わる個人墓などが多く建てられました。何と2000基もの久遠墓が建てられたとのことです。

 

 

当時の永代供養墓へのイメージ


この「久遠墓」が始まった1985年は、現代に続く少子高齢化の始まりでもありました。特にこの時代には一人っ子の家が多かったため、必然的にお墓の継承問題も増えてきた時代でした。

 

【 永代供養墓、当初の反応 】

 

★ 久遠墓は格式のある比叡山延暦寺が始めた永代供養墓だったこともあり、当時はテレビなどでも紹介されて注目をされています。

 

・ けれども現在よりも「お墓は代々継ぐもの」と言う意識が強かった当時、久遠墓は身内がいなかったり、やむを得ない時に利用するお墓、と言うイメージが拭えませんでした。

 

当時は久遠墓のような立派な永代供養墓があった一方、「永代供養墓」の制度が安定していなかったのも原因です。無縁塔に近い永代供養墓も多くあったため、ネガティブなイメージがありました。

 

 

本格的な永代供養墓の広がり


このような永代供養墓が本格的に広がり始めたのが、1999年の「墓地、埋葬等に関する法律」の部分改正です。

 

【 永代供養墓が広がるきっかけ 】

 

★ 当時は永代供養墓を建てることができる霊園が限られていたため、永代供養墓を求める場合には、お墓自体を引越し(改葬)しなければならず、これが大きな壁にもなっていました。

 

・ けれどもこの部分改正によって、改葬手続きがグンと楽になりました。これをきっかけに少しずつ、永代供養墓の需要が伸びて行きます。

 

江戸時代の項でもお伝えしたように、永代供養は地域にしばられない性質をもっています。そのため、この後のインターネットの普及により、各家庭で永代供養と永代供養ができる霊園の宣伝ができるようになったのもひとつの原因です。

 

 

納骨堂の変遷


この傾向が最も顕著にみられる永代供養の形は「納骨堂」です。納骨堂は遺骨を安置する場所で、ロッカーのようにそれぞれのスペースが設けられています。

 

【 納骨堂での永代供養 】

 

★ 実はこの納骨堂も昔からありましたが、近年のような形になるまでは、一時期的な骨壺の安置場所でしかありませんでした。

 

・ けれども今では納骨堂内での祭祀が丁寧に行われ、霊廟として姿も変わり、都心部の家族を中心にニーズが高い、葬送のひとつの形として認められるようになっています。

 

 

いかがでしたでしょうか、今回は近年ニーズが高い永代供養墓の歴史を紐解いてみました。現代の「永代供養」に当たるもの自体は、1985年が始まりでしたが、江戸時代から似たような制度が成されていたのです。

 

ちなみに浄土真宗における「永代経」は、永代供養とは少し意味合いが違います。「ご霊前」が無く、人は亡くなった直後から仏となる(極楽浄土へすぐに向かう)とされるのが浄土真宗です。

 

そのため、もともと他の宗旨宗派のような追善供養を必要としない、と言う考え方に基づいたお経が「永代経」となります。(浄土真宗でも法要は行いますが、それは残された遺族のためにあるのです。)

 

現在では永代供養墓も多種多様、永代供養の形も、本文中でお伝えした納骨堂や樹木葬と多様化しています。ぜひ、問題が起きた時には、ひとつの選択肢として検討してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

まとめ

永代供養墓の歴史とは

・江戸時代の永代供養墓地、「信者寺」
・比叡山延暦寺が1985年に久遠墓を始めた
・当時はネガティブなイメージが強かった
・1999年の法改正により、本格的に広がった
・納骨堂も昔は一時期的な遺骨の安置場所だった

 



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