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宮古島のお墓を巡る。宮古の栄枯盛衰を想うお墓たち

宮古島のお墓を巡る。宮古の栄枯盛衰を想うお墓たち
宮古島にはお墓をはじめとした、古くは14世紀15世紀から、その面影を残して現存する史跡が、数多くあることでも有名ですよね。南国の空気を味わうのも観光の醍醐味ですが、これらの史跡も見ごたえがあります。

 

宮古島のお墓は、その昔の風葬の歴史をみることができる貴重なものも多いのですが、一方で公民館などの近くにさりげなく残されている様子も興味深いのではないでしょうか。

 

最初から宮古のお墓や史跡の場所、名前を確認しなければ、ただ見過ごすことも多く、車で観光をすると気づかなかった史跡も、徒歩で歩くことで気付くこともあり、その風景は全く変わるのです。

 

そこで今回は、ぜひ訪れる前に調べて行きたい、宮古島のお墓たちや、そのお墓から見られる、宮古の歴史をお伝えします。知るだけでぐっと興味深い史跡となるので、ぜひ一読ください。

 



 

宮古島のお墓を巡る。
宮古の栄枯盛衰を想うお墓たち

 

宮古の風葬のお墓、「みゃーか」


宮古には風葬時代のお墓が残っており、「みゃーか」と呼ばれています。諸説ありますが一説では、全国的には鎌倉・室町時代に当たる、14世紀~16世紀頃まで建設されていました。

 

【 宮古のお墓、「みゃーか」 】

 

★ 風葬の習慣があった宮古では、お墓として石を囲い(この石が巨大!)、そこに死者を寝かせて弔っていたようです。

 

・ 宮古では、そんなお墓が現存していて、昔はあちらこちらにこの「みゃーか」があったようで、「大立大殿みゃーか」などがあります。

 

1974年には宮古島市指定有形文化財(建造物)に指定されていますが、実際に訪れると草木に埋もれていたり、事前に知識を得てから注意して見なければ、良く分からないものもあるかもしれません。

 

けれども理解して訪れると、風葬の歴史を垣間見ることができる、とても興味深い遺跡です。

 

★ 宮古島にある久松公民館近くでは、「久松みゃーか群」などを見つけることができます。

 

宮古島、特に久松地域ではこの「みゃーか」を「ぶさぎ」とも呼び、みゃーか群のひとつである「久貝ぶさぎ(久貝みゃーか)」は、その後、宮古島の頭となった仲宗根豊見親の妻の父親のものだと、伝えらえてきました。

 

 

14世紀の冷血漢、佐太大人


この時代、14世紀も中頃になると、宮古島平良の東川根と言う場所にいた、佐太大人(さたうぶんと)が力を付け始めます。

 

この時代の宮古島は激しい戦国時代を迎えていて、佐太大人は「与那原軍」の首領となって、次々と侵略を進めていました。

 

【 宮古のお墓、与那覇の支石墳 】

 

★ しかしこの佐太大人率いる与那覇軍の侵略は残虐を極め、女性も子どもも関係なく殺し、虐殺を繰り返していたのです。

 

・ その冷血な侵略によりどんどん宮古の城の大半は陥落、その勢いのまま、平良の城間城を陥落しようと、目黒盛(みくらむい)を攻めました。

 

勢いのある与那覇軍の前に、目黒盛軍はとうとう島の端である漲水の浜まで逃げ、皆が覚悟を決めたと言われています。そこで与那覇軍の背後を取ったのが、怒った農民達でした。

 

与那覇軍の残虐の極みに立ち上がった宮古島の農民達だけではなく、さらには西仲宗根にいる頭「スクライ」も、援軍を出したのです。

 

【 宮古のお墓、目黒盛軍の逆転勝利 】

 

★ こうして目黒盛軍に大敗した佐太大人の与那覇軍は逃げ落ち、目黒盛軍は彼らを追い詰めることはありませんでした。

 

・ 逃げ落ちた与那覇軍が行きついた場所が与那覇村と言われ、与那覇公民館近くにある与那覇の支石墳は、与那覇軍の共同墓地だと言われています。

 

また与那覇公民館近くには、この支石墳の他に与那覇軍の首領であった佐太大人を祀る「佐太御嶽」も残されているのです。

 

 

目黒盛が「豊見親(とぅゆみゃ)」に


こうして与那覇軍を下し宮古を統一した目黒盛は、後に「豊見親(とぅゆみゃ)」と呼ばれるようになります。

 

【 宮古のお墓、豊見親時代の始まり 】

 

★ 「豊見親(とぅゆみゃ)」は宮古では尊敬の意を表す敬称で、その後の宮古の首長には、名前の後に「豊見親(ゆとぅみゃ)」が付けられるようになりました。

 

・ 全国的には室町時代が続く14世紀後半、与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)は琉球の王の元へ出向き、正式に宮古の王として認められるのです。

 

こうして、琉球との関わりを持ちながら豊見親(とぅゆみゃ)の時代が続き、仲宗根豊見親の時代に、現代に残る宮古島最大のお墓、「仲宗根豊見親の墓」が建てられました。

 

 

琉球王国との繋がり、仲宗根豊見親の墓


仲宗根豊見親の墓は敷地がおおよそ115坪の、宮古島最大のお墓です。

 

仲宗根豊見親の墓自体は、15世紀に統治していた仲宗根豊見親は、父親の真誉之子豊見親(まゆのふぁとぅゆみゃ)の弔いとして建てたとも言われています。

 

【 宮古のお墓、仲宗根豊見親の墓 】

 

★ 仲宗根豊見親の墓の他、その奥には正妻と共に入れなかった側室(アントマ)のお墓である「アントマ墓」や、仲宗根豊見親の三男のお墓、知利真良豊見親の墓などもあります。

 

・ さらにこのお墓は、かつての「みゃーか」とは違い、宮古の「みゃーか」と沖縄本島の亀甲墓に代表される「横穴式」との折衷墓となっていることも歴史的に貴重で、琉球王朝と宮古島の交流を現しています。

 

 

 

いかがでしたでしょうか、今回は宮古島のお墓で歴史が分かる、宮古に残るお墓たちをお伝えしました。宮古にはこれらのお墓だけではなく、多くの昔から残る御嶽(うたき)も残されています。

 

ただ、御嶽(うたき)は沖縄の御願文化においてとても神聖な場所で、現在でも拝みの対象になっています。そのため、立ち入り厳禁の御嶽もあるので、観光の際にはぜひ注意をして訪れてください。

 

宮古ではお墓は訪れることができますが、観光客が気軽に拝所まで立ち入ることができる御嶽(うたき)になると、仲宗根豊見親の墓の近くにある、漲水御嶽(はりみずうたき)のみとなります。

 

他の御嶽(うたき)も見学はできますが、立ち入ることはできません。できれば漲水御嶽以外の御嶽(うたき)を訪れる際には、地元の方とともに行くことをおすすめします。

 

 

まとめ

宮古島の興味深いお墓たち

・宮古の風葬の歴史を残す、「みゃーか」
・14世紀、与那覇軍の共同墓、「与那覇の支石墳」
・宮古と本島の繋がりを示す、「仲宗根豊見親の墓」
・豊見親の側室(アントマ)達が眠る「アントマ墓」

 



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