宮古のお墓で歴史を探る。四島の主墓の「主」は誰?
宮古のお墓としては、島で最も大きいとされる仲宗根豊見親の墓(なかそねとぅゆみゃのはか)が有名ですが、せっかくならその他の多くの宮古のお墓を通して、昔の宮古を感じたいですよね。
宮古のお墓は興味深いものが多く、仲宗根豊見親の時代以前の風葬墓「みゃーが」群や、側室(アントマ)たちが眠る「宮古アントマ墓」などなどがあります。
このなかでとりわけ「謎」の多い宮古のお墓が四か所ある「四島の主墓(ゆすまぬしゅばか)」のひとつです。
狩俣中学校の近く、県道にある「四島の主墓」の案内から入ると、歩いて進む上り坂があり、その先に「四島の主墓」が見えてきます。ちょっとした知識があると、感慨深く見学ができますよね。
そこで今回は、狩俣中学校近くにある宮古のお墓、「四島の主墓(よんすまぬしゅばか)」についてお伝えします。
宮古のお墓で歴史を探る。
四島の主墓の「主」は誰?
宮古のお墓、四島の主墓を訪れる
四島の主墓の「四島」は、狩俣・島尻・大神・池間の四つの集落を表していて、「四島の主」とはこの四つの集落を統制していた権力者です。
【 宮古のお墓、四島の主墓を訪れる 】
★ 車では、県道保良西里線を島尻集落へ抜け狩俣集落へ至る、狩俣中学校へ向かう途中の丘陵地にあります。宮古空港からは25分(車なら)が目安です。
・ 島尻集落を抜けると200メートルほどもすれば辿り着きます。ただし、四島の主墓には駐車場がないので注意をしてください。
バスを利用する場合には、宮古港から出ている池間一周線、もしくは狩俣一周線を利用して、「中学校前」で下車すると辿り着けます。
四島の主の功績
狩俣・島尻・大神・池間の領主となる四国の主は、冒頭でお伝えした仲宗根豊見親の時代に活躍した人物と言われています。仲宗根豊見親の時代は15世紀中期~16世紀初葉です。
【 宮古のお墓、四島の主の活躍 】
★ 1727年に記された「雍正旧記」には、この四島の主が島尻と狩俣の集落に「渡地橋」と言う橋を架け行き来をしやすくし、井戸も作ったとされています。
・ 他にも険しかった農道を修繕、休憩所を設ける農民の働きやすさに尽力したため、地域の人々からは慕われていました。
そのため四島の主墓は、その後もお墓参りをする人々が絶えなかった「仁徳の人」として有名です。
四島の主はユマサイ?
四島の主の一族は狩俣の「白川與那覇家」と言われ、前述した功績をのこした四島の主は、一般では童名を「百佐盛(ももさもり)」と言われた人物ではないかと言われています。
【 宮古のお墓、四島の主の唄 】
★ この四島の主とされる童名・百佐盛は、後に「ユマサイ」と呼ばれ、確かではないのですが、宮古の民謡に登場する人物なのではないか…、と考えられました。
・ ユマサイが登場する唄は「狩俣二ーリー」と「四島の主アーグ」です。これらの唄では八重山諸島を航海していること、船を造った様子などが唄われています。
ただ、百佐盛は後の八代目「與那覇恵常」とされ、四島の主墓に眠ってはいるものの、渡地橋を架けたとされる人物が與那覇家の何代目なのかについては、まだまだ謎が残っているのです。
宮古で伝えられる「噂話」
ただ他にも宮古ではこのお墓について、「與那覇五代目の二男」であるなど、違う説も見受けられ、真実は定かではありません。
ただ、童名・百佐盛(八代目與那覇恵常)として、細かく検証していくと、いくつかの綻びがうまれます。
【 宮古のお墓、時代のズレ? 】
★ 童名・百佐盛(八代目與那覇恵常)のいた時代は、西暦1609年~1684年、つまり17世紀の人物です。一方、仲宗根豊見親の時代は前述したように15世紀中期~16世紀初葉となります。
・ 仲宗根豊見親の時代に活躍した(渡地橋を架けるなどした)四島の主は、百佐盛よりも以前となるのです。
ちなみに二世となる恵幹は、後の仲宗根豊見親に領主の地位を譲ったとされる人物でもあります。
雍正旧記による記述
このように、四島の主墓で伝えられる「四島の主」は、童名・百佐盛(八代目與那覇恵常)とされるものの、確実ではありません。唯一「百佐盛」の言葉が出てくる文献は雍正旧記で、下記のように記されているのみです。
【 宮古のお墓、雍正旧記の記述 】
★ 「昔、狩俣四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と偽申由候」
真実は謎も多いものの、この四島の主が農民の暮らしをより快適なものにするために尽力し、四島の住民達に慕われてきたこと、お墓参りをする者が絶えなかったことは確かなようです。
いかがでしたでしょうか、今回は宮古のお墓、狩俣中学校近くにある「四島の主墓(ゆすまぬしゅばか)」についてお伝えしました。昭和53年には、平良市の史跡指定も受けています。
一時はアコウの木などに浸食されて損壊していた部分もあったのですが、平成25年(西暦2013年)には924万円を掛けて修復作業が行われ、今では手入れの行き届いた史跡となりました。
この四国の主についての唄(四国の主あやぐ)には、 「何からが如何からが親なたよ、 墨からど筆からど親なたよ」 と言う一文もあります。文筆に長けた人物像だったのでしょうか。
このように、渡地橋を架けた人物が何代目なのかは謎が残るところですが、四島の主墓は狩俣・島尻・大神・池間を守ってきた領主、与那覇家が近代に至るまで、代々継承してきたお墓です。
様式も興味深いものなので、ぜひ一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
まとめ
四島の主墓に伝わる人物の謎
・渡地橋や農耕の利便性に尽力した人物
・仲宗根豊見橋の時代に活躍した
・狩俣・島尻・大神・池間、四島の領主
・狩俣の「白川與那覇家」の一族のお墓
・渡地橋を架けたのはユマサイ?
・ユマサイは八代目與那覇恵常とも言われる