【宮古の御嶽】島へ鍛冶を伝来した神様、船立御嶽の物語
宮古の御嶽(うたき)は数多くありますが、宮古に訪れるなら、その由来や歴史も理解して、敬意を持って訪れたいですよね。宮古の御嶽の由来を探ると、島の歴史も見て取ることができます。
そんな宮古の御嶽のなかでも、農業の神様として祀られている船立御嶽(フナタティウタキ)は、鍛冶の神様としても知られ、その伝説は想定する事柄も多く興味深いです。
この船立御嶽(船立堂)からは、金屎(かなくそ)なども発掘されていて、現代では鍛冶伝来が13世紀説と14世紀説があります。
宮古の人々の飢えを凌いだ伝説や歴史、その物語が垣間見れるのが、宮古の御嶽です。そこで今回は、その昔に島の農業を盛んにした鍛冶の神様・農業の神様を祀った宮古の御嶽、船立御嶽をお伝えします。
【宮古の御嶽】
島へ鍛冶を伝来した神様、船立御嶽の物語
鍛冶と農業の神様、船立御嶽
宮古最大のお墓である仲宗根豊見親の墓から近く、古い北市街地の近くに、鍛冶(農具)の神である「カニドノ(かにどの)」、妹神「シラクニヤスツカサ」が祀られている「船立御嶽」があります。
「船立御嶽」は「船立堂」とも言われ、正式には「ふねだてうたき」、方言では「フナタティウタキ」です。
【 宮古の御嶽、船立御嶽 】
★ 平良市西仲宗根の尻間にある船立御嶽は、市役所から行くと北東へ200mほどの住宅地の中にあります。
・ 裏には芝生の小さな公園「船立公園」があり、ブランコなどの遊具もありますが、行く時期によっては芝生が茂っていて入れないこともあるかもしれません。
ちなみに船立公園は「ふねたて」公園、船立御嶽は「ふねだて」御嶽と、御嶽の時には濁るので注意してください。
宮古の船立御嶽、久米島追放の兄妹
その昔、久米島の按司の父を持つ兄妹がいました。妹は美しく品が良く感に優れた女性で、島の万事を必ず当てる能力がありました。
兄には嫁がいましたが、この嫁が義妹を妬むようになります。
【 宮古の船立御嶽の物語 】
★ そこで兄嫁は義父である久米島の按司に、「義妹が夜な夜な男を連れ込んでいる。」と、嘘を言ったのです。
・ 兄嫁の嘘をうのみにした久米島按司は、妹を小船に乗せて流してしまいました。その全てを知っていたのが、兄です。
兄嫁の嘘にだまされ、全く自分の娘を信じようとしない父を見ていた兄は、妹と運命を供にしようと小舟を追いかけて飛び乗りました。
宮古の漲水御嶽に祈る
兄妹が乗る船は久米島から流され、やがて宮古島の漲水海岸へ辿り着きます。そこでまず、兄妹は漲水御嶽を訪れ、今後を祈りました。
【 宮古の漲水御嶽で神のお告げ 】
★ 兄妹が辿り着いた宮古の漲水御嶽で祈願した夜、妹の夢に漲水御嶽の神様である恋角(コイツノ)が現れたのです。
・ その進言に従い兄妹は船立の地に小さな小屋を建て、ここを新居としました。
暫くは船立の地に住む人々の下働きをし、水汲みなどを手伝っていましたが、妹は品行方正であったため、地元の領主である住屋里の兼ね久世の主(かねこよのぬし)と結婚をします。
ちなみに「世の主」とは、地元の領主の意味合いで、妹は九人の子どもに恵まれました。
子どもと共に、父と再会
妹の子どもが成人した頃、子ども達は「祖父に会いたい、母に祖父を会わせてあげたい。」と思うようになり、船を仕立てて母を引き連れ、久米島へ向います。
【 宮古の船立御嶽の物語、父と再会 】
★ そこで全てを悟った久米島按司の父は、自分の非を詫び、妹に黒がねと巻物を持たせるのです。
・ 「黒がね」とは鉄のことで、巻物には黒がねから道具を作る鍛冶の知識が書かれていました。
妹は持ち帰った黒がねと巻物を兄に渡し、鍛冶の知識と黒がねを得た兄は、宮古島の人々に鎌やヘラなどの農具を広めました。
今まで農具らしいものがなく、骨などを利用して農業を行っていた宮古の人々は、農具の登場によりぐんと農作業が楽になります。そして農業はぐんぐんと広がり、五穀豊穣となったのです。
船立の地に兄妹を祀る
兄カニドノと妹のシラクニヤスツカサの死後、宮古の人々は船立山に二人の骨を埋めて、道具によって農業を興した鍛冶や農業の神として祀りました。
「船立山」と言っても、行ってみると丘のような高さで、祠の周りにはアコウの木などの木々で覆われ、アコウの木の下には拝所と思われる威部(いび)があります。
【 宮古の船立御嶽の現在 】
★ 旧歴11月1日にはフーツキヨーカ(ふいご祭り)が、旧暦8月8日には鍛冶祈願であるカージャー願いが執り行われていました。
・ ただ、宮古の御嶽で祭祀を行うには「サス」と呼ばれる祭祀を行う女性がいるのですが、このサスの継承が行われていないために、行事も滞っています。
いかがでしたでしょうか、今回は宮古の御嶽でも農業や鍛冶の神様である、カニドノやシラクニヤスツカサを祀る、船立御嶽とその物語をお伝えしました。
この物語から、鍛冶技術は中国から久米島へ(兄妹が久米島出身だったことから)、その後宮古島へと広がったと推測する専門家もいます。
カニドノによって鍛冶が広がる前までは、馬牛の骨を使って農業をしていたと言われているので、農具の普及によって農作業がどれだけ楽になったのかは想像できるのではないでしょうか。
さらにこの宮古の船立御嶽の近くには、沖縄の名産物でもある「芋」を中国より16世紀に伝来した、「長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)」を祀る、「芋ヌ主(んーしゅう)御嶽」があります。
宮古に来たなら、その歴史や由来となる物語も噛みしめながら、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
まとめ
宮古の船立御嶽の物語
・平良市西仲宗根にある「船立御嶽」
・久米島按司の妹(兄)が宮古に流される
・漲水御嶽のコイツノに進言を受ける
・妹が成人した息子とともに宮古を再来
・宮古より黒がね(鉄)と巻物を授かる
・兄が黒がねと巻物を元に鍛冶を興す