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【宮古の御嶽】島の人々を飢餓から救った、芋ヌ主御嶽

【宮古の御嶽】島の人々を飢餓から救った、芋ヌ主御嶽
宮古の御嶽は数多くありますが、そこに祀られている神様や祖神様、その歴史は興味深いものがありますよね。宮古の御嶽のひとつ芋ヌ主御嶽では、宮古に芋が伝わった歴史が分かります。

 

現在、宮古や沖縄で盛んに栽培されている農作物が芋、名物の芋は、沖縄では「紅イモ」、宮古では「紫いも」と呼ばれていますが、地域によって呼び方が違うものの、同じ作物です。

 

全国的には「薩摩芋(さつまいも)」があるため、日本では薩摩が最初、と言うイメージがありますが、実は宮古が最初に中国から芋を伝来しました。

 

宮古島では戦後も、宮古で獲れた芋を持ち寄ってお供えして催される「芋プゥイ」が行われていました。そこで今回は、宮古の芋神様の御嶽、芋ヌ主御嶽をお伝えします。

 



 

【宮古の御嶽】
島の人々を飢餓から救った、芋ヌ主御嶽

 

史跡が並ぶ宮古島西仲宗根


芋ヌ主御嶽は「芋ヌ主」を「んぬしゅう」と言い、「ん・ぬ・しゅう・うたき」と呼び、宮古島西仲宗根、保里の東端にあり、この西仲宗根には他にも多くの史跡があるのです。

 

この近くには、鍛冶や農業の神様を祭る船立堂(船立御嶽)があり、西仲宗根にはその他にも、漲水御嶽(平良港近く)や宮古最大のお墓、16世紀に建てられた仲宗根豊見親の墓などがあります。

 

【 宮古の御嶽、芋ヌ主御嶽 】

 

★ 芋ヌ主御嶽の名前の通り、宮古で最初に種イモ(唐イモの茎)を中国から伝来した、長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)を祀っています。

 

・ 長真氏旨屋が伝えた芋は、中国(唐)から伝わったため「唐イモ」と言われました。

 

宮古島は現在のニュースからも分かるように、毎年の台風や長い干ばつに見舞われることは日常茶飯事で、食糧難になって島民が多く亡くなる年も多くありました。

 

芋の栽培はそんな宮古島に適していて、とても丈夫で過酷な環境でも育ってくれるものだったため、島民を飢餓から救ったのです。

 

 

宮古の芋ヌ主御嶽の物語


宮古の芋ヌ主御嶽の神様となっている長真氏旨屋は、16世紀の人物で、与人役として宮古島の要職に就いていました。

 

【 宮古の芋ヌ主御嶽、一回目の漂流 】

 

★ 長真氏旨屋が与人役として琉球王国へ訪れた帰途、長真氏旨屋を乗せた船が漂流してしまいます。そして辿り着いたのが、中国の福建省でした。

 

・ 中国では当時、フィリピン・ルソンから芋が伝来し、芋栽培が盛んになっていた時期でした。その様子を見た長真氏旨屋は、3年間中国に滞在し、芋かずら(芋の茎)を宮古島に持ち帰ったのです。

 

1597年、長真氏旨屋が芋かずらを持ち帰り広めると瞬く間に広がり、宮古島の主食に取って代わりました。

 

 

琉球王国の芋の伝来


この宮古の芋ヌ主御嶽の歴史で分かるのは、琉球王国よりも先に宮古島へ芋が伝来しているという事です。宮古島から琉球王国へと伝来した、と言う説もありますが、真相は分かりません

 

【 宮古島の芋ヌ主御嶽、琉球王国の芋伝来 】

 

★ 琉球王国では1605年、野口総官(のぐにそうかん)が中国より芋栽培を伝えました。また、野口総官は芋の栽培方法を研究した人物でもあります。

 

・ 栽培方法が定まると、続いて儀間真常によって沖縄本島の各地に芋栽培が広がり、18世紀に薩摩に伝来、本州では薩摩から広まったので「さつまいも(薩摩芋)」となりました。

 

野口総官が1605年に芋栽培を伝来したのに対し、長真氏旨屋は1597年、僅か8年ではありますが宮古島が先だったことになります。とは言え、どちらも沖縄の人々を飢餓から救った偉人です。

 

 

波乱万丈な人生、長真氏旨屋


長真氏旨屋が芋を伝えたきっかけとなったのが、船の漂流でしたが、長真氏旨屋はあちらこちらへ船出し、1594年の漂流も含めて3度の漂流をしています。

 

【 宮古の芋ヌ主御嶽、長真氏旨屋の漂流人生 】

 

★ 実は芋かずらを持って中国福建省から宮古島へ帰る帰途であった1597年にも漂流、九州に辿り着きました。

 

・ そして長真氏旨屋人生最後の漂流は1642年です。琉球王朝へ訪問した帰り、悪天候に合い漂流して八重山に辿り着きます。

 

長真氏旨屋は1932年に昇進、役人としては最上級の砂川親雲上(うるかぺーちん)の役職に就きますが、1642年の八重山漂着の後、病気に見舞われて宮古島に戻ることなく、その人生を終えたのです。

 

 

芋ヌ主御嶽の豊作感謝祭り


昇進して砂川親雲上旨屋 (うるかぺーちんしおく)となった長真氏旨屋は、亡き後に宮古島で「芋の神様」として祀られました(芋ヌ主御嶽)。

 

【 宮古の芋ヌ主御嶽、「芋プゥイ」 】

 

★ 戦後の1950年頃までは、毎年8月頃になると「芋プゥイ」と呼ばれる豊年感謝祭が行われていました。

 

・ 宮古島各地から収穫した芋を持ち寄りお供えし、織旗を掲げて相撲の奉納…と、とても賑やかに行われていたそうです。

 

1950年以降、宮古島の食糧事情が変化して芋の栽培農家が減少し始めたことをきっかけにして、芋プゥイもなくなっていきました。

 

 

 

いかがでしたでしょうか、今回は宮古の御嶽のなかでも宮古の人々を飢餓から救った、長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が祀られている芋ヌ主御嶽をお伝えしました。

 

戦後間もなくの頃まで、宮古の人々にとって芋栽培は重要な農業のひとつで、多くの人々が芋農家として精を出していたため、その時代を知る宮古のおじぃ・おばぁの話では、「とても賑やかで大きな祭りだった。」と聞きます。

 

そのためこの芋伝来について再確認しようと、2012年頃には宮古市によって「甘しょプロジェクト」も興され、最注目されました。

 

宮古の芋ヌ主御嶽のすぐ北側には小さい宮古の御嶽ながら、ティダヌ主神や水ヌ神、トゥビトゥノ主を祀った、「フサティ御嶽」もあります。

 

歴史も噛みしめながら訪れることで、随分と見方が変わるのが宮古の御嶽です。むやみに足を踏み入れてはならない領域もありますが、訪れることができる範囲だけでも、訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

まとめ

芋伝来の祖を祀った、芋ヌ主神

・芋栽培を伝えた長真氏旨屋を祀った御嶽
・琉球からの帰途、漂流して中国に漂着する
・中国から芋かずらを持ち帰り、宮古に広げる
・1632年には昇進、砂川親雲上旨屋となる
・1950年代まで豊年祭「芋プゥイ」が行われた

 



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