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【沖縄のお墓】本島南部のアジ墓から始まる、お墓の歴史

【沖縄のお墓】本島南部のアジ墓から始まる、お墓の歴史
沖縄のお墓が大きい理由として、風葬の歴史があることは、良く知られるところですよね。昔から残る王族の大きなお墓は良く観光名所にも見られますが、一般庶民まで大きなお墓を建てているのが、特徴的です。

 

日本の歴史で言えば明治中期と、比較的近い昔まで琉球王朝の時代が続いていました。そのため、日本の歴史で見られるような寺院墓地でお墓を建てる檀家制度や菩提寺の風習もありません

 

個人で墓地用地を準備してお墓を建てる、「個人墓地」と言う独自の歴史を辿ったからこそ、大きなお墓が建ったとも言えます。

 

そんな沖縄ではお墓を見ると、昔の風葬の名残りが残る拝所や墓地も多く残されています。沖縄のお墓の歴史の変遷を知ると、より感慨深いですよね。

 

そこで今回は、より味わい深く見学できる、古代からの沖縄のお墓の歴史の変遷をお伝えします。

 



 

【沖縄のお墓】
本島南部のアジ墓から始まる、お墓の歴史

 

沖縄のお墓の昔はなし


最も古い沖縄のお墓の昔話によると、故人の遺骨は洞窟の穴やスキマなどに詰め込んでいた、と言われています。

 

【 沖縄のお墓、お墓の始まりの伝説 】

 

★ 大昔の沖縄の人々は、親族のなかで人がなくなると、その遺体を人里離れた洞窟や崖前に移動したと言われています。

 

・ そして故人の肉を親族一族が集まって食べて骨のみを残し、その骨を洞穴や崖の中腹に詰め込むように入れていたそうです。

 

これは沖縄の昔はなし(伝説)に過ぎませんが、このような古代のお墓が「アジ墓」と言われ、現代では拝所として利用されています。

 

【 沖縄のお墓、洞穴のお墓 】

 

★ 今残っている古代の沖縄のお墓で有名な場所は、浦添ようどれです。

 

・ 浦添ようどれには、十三世紀の英祖王(えいそおう)と、十六世紀の尚寧王(しょうねいおう)が左右に並んでいます。

 

この浦添ようどれは、浦添城址で見ることができます。

 

 

掘込墓と風葬の歴史


その内に沖縄では風葬の歴史を辿ります。宮古島などでは大きな岩石が集まる「みゃーが」と呼ばれる、風葬の歴史の名残りが見えるお墓を多く見つけることができます。

 

【 沖縄のお墓、風葬の歴史 】

 

★ 故人の遺体を山や崖などの人目に付かない場所へ移動すると、数年間放置して白骨化するのを待ち、白骨化したら一族の女性が洗骨を行い、大きめの骨壺に入れるのです。

 

・ 山や崖を掘り込んで遺体の安置場所を造り、その遺体を取り囲むようにして石を積み上げるのが、現代の沖縄のお墓でも見られる「掘込墓(横穴墓)」の始まりです。

 

前述した宮古島には16世紀に建てられた「仲宗根豊見親の墓」がありますが、これは前述した宮古の「みゃーが」と、沖縄本島の掘込(横穴)墓が折衷された、他にはない造りとなっています。

 

 

琉球王朝時代の破風墓


さらにこの掘込墓の周囲の壁や屋根を装飾し発展したのが、破風墓(はふばか)で、現在の沖縄のお墓のなかでも定番です。「破風」は三角屋根の板のことで、屋敷のような屋根があります。

 

【 沖縄のお墓、破風墓 】

 

★ 現在は世界遺産にもなっている、首里城近くの玉陵(たまどぅん)があります。

 

・ 1501年に当時の琉球の王、尚真王によって建てられたお墓で、2.442㎡と言う広大な敷地を誇っているのが特徴的です。沖縄戦で被害に合ったものの、1974年から3年間を費やして修復しました。

 

ただ、琉球王朝時代にはこのような破風墓(はふばか)などを庶民が建てることは禁じられていたため、庶民は小さな四角い箱のようなお墓であったり、村墓なども多かったです。

 

 

子宮回帰の亀甲墓(かめこうばか)


続いて登場した沖縄のお墓が亀甲墓で、かめこうばか・カーミヌクーなどと呼びます。このデザインは中国の福建省や台湾でも見られ、大陸から伝わったものと推測されます。

 

明治中期にあたる1879年、明治政府により琉球王朝が終わりを遂げ、廃藩置県が行われたことによって庶民が破風墓などのお墓を建てることが許されるようになりました。

 

【 沖縄のお墓、亀甲墓 】

 

★ もともと琉球王朝時代にも亀甲墓は建てられていましたが、庶民に広がったことによって、沖縄の中南部を中心に広まった沖縄のお墓が「亀甲墓」です。

 

・ 亀の甲を象った屋根が特徴的ですが、これは女性の子宮から産まれ、亡くなるとまた子宮に戻ることを表現しているとも言われています。

 

「人は産まれる時、二寸と四寸の穴から出てくる、亡くなると二尺と四尺の穴から入る」と言う言葉に倣い、お墓の扉が二尺四尺に造られている、と言う話も多いです。

 

 

霊園の登場、琉球墓の変化


そんな沖縄のお墓ですが、近年に来て若い世代の暮らしがグローバル化し、お墓の継承問題に悩む家が増えてきました。そのため無縁仏が多くなってきたのです。

 

【 沖縄のお墓、霊園需要 】

 

★ 本州では昔からある霊園墓地ですが、沖縄では公営墓地はあったものの、20年前頃から民間霊園や寺院墓地が広がり始めました。

 

・ 今まで大きな敷地に建っていた琉球墓も霊園の決まったスペースでは難しくなり、破風墓や亀甲墓のコンパクト化が進みました。

 

シンプルに納骨をする基室の上に墓標を置く軸石型も多く見られるようになっています。

 

 

 

いかがでしたでしょうか、今回は沖縄のお墓の歴史を古代から並べてみました。

 

また明治中期の廃藩置県後には、琉球王朝の破風墓を模して造った、「家形墓」も庶民の間で多く建てられています。天井は平らで屋根を付けたものが家形墓で、破風墓と違い屋根に高さがありません

 

庶民の間で広まった沖縄のお墓は、沖縄戦やその後のアメリカ軍の決定により、撤去されてしまいました。

 

沖縄ではお墓の前で親族が集まり食事(昔はお供え物の重箱料理=ウサンミ)をいただく風習があるため、破風墓などにひさしを伸ばして雨除けにするタイプも人気です。

 

沖縄のお墓は街を歩いたりドライブをすると、そこここで見つけることができますので、一度注意して確認してみてはいかがでしょうか。

 

ただその際には、近くへ行ったり触ったりせず、遠くから眺める程度で確認してください。

 

 

まとめ

沖縄のお墓と葬送の歴史

・洞穴を利用して遺骨を安置した
・山や崖を掘って遺体を安置した
・遺体の周りに石を積み上げてお墓にした
・さらに装飾を施し屋根を付けた破風墓
・中国南部から伝わった亀甲墓
・霊園の歴史は全国的なものより浅い

 



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