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【沖縄のお墓】移住者に注目される亀甲墓、5つの豆知識

【沖縄のお墓】移住者に注目される亀甲墓、5つの豆知識
沖縄のお墓は大きな家のようなお墓が多く、特徴的ですよね。日本の他の地域のお墓と比べるとあまり共通性がありませんが、台湾や中国福建省では、似たようなお墓を散見できます。

 

そんな沖縄のお墓で、現在でも見られるデザインと言えば「破風墓(はふばか)」「亀甲墓(かめこうばか)」です。どちらも琉球王朝時代に王家が建てていたお墓でした。

 

けれども1879年、当時の明治政府によって琉球王朝の時代は終わりを遂げます。その後の廃藩置県以降、一般庶民までこれらのお墓は広がっていったのです。

 

そんな沖縄のお墓、自分達の住む沖縄の文化や伝統に誇りを持つ沖縄の方々はもちろん、近年では沖縄を愛する移住者にも注目されるようになりました。

 

そこで今回は、沖縄の二種類のお墓のなかでも、特に移住者などの他県の方々に人気がある亀甲墓について、詳しくお伝えします。

 



 

【沖縄のお墓】移住者に注目される亀甲墓、
5つの豆知識

 

昔の亀甲墓の造りとは


沖縄のお墓としては破風墓(はふばか)から始まるのですが、亀甲墓はその後随分遅れた17世紀後期より登場しました。破風墓を模した造りで、上部分の屋根の装飾を亀の甲羅のようなものに変えたタイプです。

 

【 沖縄のお墓、亀甲墓の造り 】

 

★ 後程詳しくお伝えしますが、沖縄では風葬の歴史があったため、遺体をそのままどこかへ安置する必要がありました。遺体を安置する訳ですから、人目に付きにくく、広いスペースが必要です。

 

・ そのため山の斜面や崖などを横から掘り出し(横穴式)その入口部分に石や漆喰で塞ぐ方法が取られました。お墓の奥部分は山の斜面や崖の中に埋まっている状態になります。

 

ただ、霊園でお墓を建てることも多い現代では、亀甲墓の屋根のデザインを引き継ぎながら、山などに隠れることなく、全てがお墓として販売されているものがほとんどです。

 

 

沖縄の中南部に増えた、亀甲墓の歴史


このような亀甲墓は、琉球王国の時代が終わった明治中期から昭和初期にかけて、特に中部や南部を中心に増えていきます。

 

戦前までこれらの亀甲墓の需要は高かったのですが、沖縄戦の戦禍のなか、爆撃を受けるなどしてどんどんなくなっていきました。

 

【 沖縄のお墓、亀甲羅墓の歴史 】

 

★ 沖縄戦ではお墓の大きさから、防空壕としても利用されましたが、アメリカに狙われる対象にもなったのです。

 

・ 沖縄のお墓は他の地域と比べてもとりわけ大きく、当時のアメリカ軍は亀甲墓を拠点とも思われてしまいました。

 

これも沖縄のお墓が大きく独特なものだったためですが、結局、戦後まで亀甲墓は撤去される対象となり、首里方面ではほとんどの亀甲墓が撤去されてしまいました。

 

 

県外の方々が亀甲墓を愛する理由


このような亀甲墓ですが、昔のような大きくて山の斜面に掘り込まれたものは難しいものの、再び屋根部分に亀甲墓のデザインを施した琉球墓が建つようになります。

 

【 沖縄のお墓、亀甲墓のデザイン 】

 

★ 前述したように先に登場した破風墓を模して、屋根部分のデザインのみを変えたもの…、と言う一方、一部では「子宮回帰」を表現したもの、との説もあります。

 

・ 亀甲墓を女性の子宮と捉え、女性の子宮を象ったお墓に自分が戻ることで、「生まれる前には子宮で眠り、死んだら子宮に帰る。」と言う考え方です。

 

沖縄には独自の御願文化があり、自然を崇拝し祖先を大切にしてきました。このような価値観の象徴にも見える亀甲墓のデザインが、沖縄を愛する移住者に注目される原因です。

 

 

亀甲墓の造り


亀甲墓の前にはカガンイシ(鏡石)、シミイシ(隅石)、スディイシ(袖石)の三種の装飾が施されています。

 

【 沖縄のお墓、亀甲墓の内部 】

 

★ 「新しい遺骨はシルヒラシに置いて、お墓の番をする。」と言われているように、新しい遺骨を置くためのスペースがあります。

 

・ これは風葬のために白骨化するまでの間、遺体を置いておくスペースだったため、寺院の僧侶など、「故人にお墓の番をさせるのは良くない。」とする方もいます。

 

奥には上段に骨壺を置くスペースがあり、その昔の骨壺は本州のものよりも大きいものだったこともあって、四畳以上のスペースを持つお墓が多いです。

 

 

昔の風葬の習慣を知る


沖縄のお墓に興味を持ったら、まず知っておきたい事柄が、風葬の歴史です。その昔沖縄では遺体を洞窟や岩陰に安置して風葬し、遺体が白骨化するのを待ちました。

 

【 沖縄のお墓、風葬の歴史 】

 

★ 白骨化した遺体は、一族の女性によって洗われ(洗骨)、厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる本州のものよりも大きめの骨壺に納められました。

 

・ このような安置している遺体の周りに石を積み上げたり、漆喰で入口を塞いで、破風墓や亀甲墓の形へと変化していったのです。

 

お墓の形となってからは、前述したシルヒラシで白骨化させ、洗骨した後に厨子甕(ずしがめ)に納めて、上段に納めなおしました。

 

 

 

いかがでしたでしょうか、今回は沖縄のお墓、風葬の歴史の名残りが垣間見れる、亀甲墓の豆知識と歴史をお伝えしました。

 

冒頭でお伝えしたように、本州の日本墓とは共通性が少ないものの、中国南部の「唐墓」や台湾などでは、とても似通ったお墓を発見することができるため、大陸から伝わったものとされています。

 

実際に沖縄は琉球王国と言う、日本とは違う歴史を辿っていて、薩摩藩との貿易の歴史はあるものの、どちらかと言えば中国との関わりが深い国でした。

 

今でこそ門中を重視した家族単位の門中墓が一般で多く見られますが、琉球王国時代には、それぞれの集落で建てられた「村墓」などが多くあります。

 

現代の沖縄のお墓事情に見合った琉球墓も登場していますので、歴史まで遡りながら、自分が最期の住処としたいお墓のデザインを選んでみてください。

 

 

まとめ

琉球墓、「亀甲墓」の豆知識

・山や崖を掘り込んで作られた
・沖縄戦や戦後に、多くの亀甲墓が撤去された
・子宮を象ったとされ「子宮回帰」と言われた
・お墓内には「シルヒラシ」がある
・昔は風葬して洗骨し、厨子甕に納めた

 



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